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観劇日記と役者ごと・お手伝いごとまとめ

team.roughstyle「凍焔」を観劇しましたドゥルルル

今日も今日とて黒田です。

さっそくですが、team.roughstyleさんの第10回公演「凍焔」を観劇してまいりました!ので、例によってブログを書くやつです(*´ `*)ドゥルルル

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今回観劇した公演「凍焔」は、約1年前に公演された「冷華」でも登場した皆様が繰り広げるお話。ちなみに私、前作品は観ておらず、なんならラフスタさんの公演を観るのも初めてで右も左も分からず カタ:(*'ω'*):カタ

それでも十分理解できるし楽しめるお話でございました。当たり前と言われれば当たり前だけども、たぶんそれって当たり前じゃないんだよ。そうなのだよ。

 

さて。

どのキャラクターもキャストさんも素晴らしかったのですが、自分のなかで整理が追いついたことだけ書きます(*´ `*)私は11/30(金)のBキャストさんの公演しか見られていないので、Aキャストの皆様には触れておりませんが悪しからず。たぶん後日増えます。

 

私の中で「めっちゃお前のこと好きだ!」ってなったのはボルさんなんですけど、私も妹や弟がいる身なので、後半の悲痛な叫びがダイレクトに胸にぶっ刺さりました。

真面目で臆病な領主である兄イクスに対し、奔放でやんちゃな弟ボルという、現実でもよくある構図。上に立つものには上に立つものの苦しみがあるならば、下で支える人にも苦労はあるわけで、お兄さんのために陰で奔走しているボルさんは、それはそれはしんどかったのだろうなと思います。

汚れ仕事を厭わなかったのも、昔のようにお腹を空かせる日々を送りたくないからっていうのもあったと思うんだけど、それよりも兄とふたりで幸せになりたいっていう気持ちがそもそものはじまりだったんじゃないかなあ。仮にそうだとして、どんどん欲に身を任せてしまった兄を見ているのは、とてもじゃないけど遣る瀬無かっただろうなあ。

やんちゃでヒールな雰囲気を纏っていたのは、ある意味自分を守るためだったのかも。きっと誰よりも純粋に兄を思っていたのはボルさんだと思います。

ボルさんもとい渡邉さんの声のお芝居をはっきりと観たのは「幸せの刻」以来だったのですが、あの立ち位置の役どころで素晴らしく輝ける方って本当にすごいなあと思います。

重要な役どころではあるのだけど、それをこちら側に悟られないように立ち振舞わなきゃいけない。でも表現が希薄で良いのかと言うとそうじゃなくて、むしろ本当に小さい小さい思いを引き連れてなきゃいけないから、抑えつつ表現しつつ、というのをナチュラルにしていかなきゃいけないわけじゃないですか。それが役者の仕事だと言われてしまえればそれまでなんだけどそういうことじゃないのです

あくまでも個人的には。

明確に陰と陽、光と影な雰囲気が見えてしまったのがなんとも言えないです。

そんなことを考えておりましたので、お二人が対峙しているときの姿が脳裏に焼き付いて離れません。

 

そういう意味では、ブリュレの立ち位置も似ているのかも。後半でフレアと対峙したときの「ちゃんと選んで欲しかった」っていう言葉、ほんの12文字の言葉なのにすごく重くないです?

もともと自分がいたはずの場所が、いつのまにかひっくり返ってて、でも疑問を持つこともなく成長したブリュレ。疑問に思うのも許されなかった、と言ってもいいかもしれない。母親であるイヴァはどこまでも自分のために生きる人で(それを堂々とやってのける伊津美さんの貫禄たるや)、領主で居続けるためには手段を問わないであろう父親のイクス。さらには王子の結婚相手として選ばれたかと思えば人違いだったという事実。

自分を取り巻く状況が嘘ばかりだと知ったとき、ふたたびブリュレの世界はぐるりとひっくり返る。そんな状況でも笑顔で「捕まえてくださる?」と気丈に振る舞うブリュレの姿は、哀れながらもとても輝いていたし、美しかったです。奔放で愛されキャラなように見えて、じつはいちばん愛を求めていたのは、ブリュレなんでしょうね。人並みの感想でごめん。

 

…とまあ少し重たいというか暗いというか、そんな感想ばっかりなわけだけど、ネガティブを輝かせるのはポジティブ。笑いです。コメディです。

お芝居としてコメディをするのにはセンスが必要だと教わりますが、まさにそれ。このお話の中心人物であり語り手のような役割を担う黒須さんですが、彼の飄々とした感じを出すのは難しいと思うのです。もちろん努力の結果だっていうのは大前提ですが、笑いのセンスがないと成り立たないでしょっていうシーンがね、多すぎるなと。独特の間だったり表情の使い方だったり、いやーすげえなーやべえなーなんだこいつと思いながら笑ってました。超面白かった。

 

今回個人的に印象深かったのは、言い方はアレだけど「遣われる側の存在」の大きさだと思っています。ある意味で主役なフレアに相対するブリュレとか、黒須さんと玉木さんとか。人に遣われる、人を支える役どこほの方。そういういった主軸の部分ではなく、寄り添う存在や支える存在、本来ならば光を当たることはあまりないであろう立ち位置に生きる方が、実はすごく大事なカギを握っているなと感じました。猫とか。

 

そうそう、キャストさんはもちろん、舞台のセットもとても素敵でした。ぐるっとひっくり返したらタイトルが出てきて、扉が開くわ階段が動くわセットは変わるわ、「いっそこれは舞台なのでは?」と思うほど、セットもキャストさんも動く動く。リーディングシアターってすごいな??!という気持ち。

当然ひとつひとつのクオリティも高くて、「凍焔」の世界を明確に形づくる大きな役割を担っている。声という目に見えないものですべてを作るのは出来ないけど、その色を損なわない存在感はもちろん、キャストの皆様の熱量を支えられるだけの物理的なつよさとか、巧妙に繊細に、だけど力強く作られた一瞬の世界。きっと作るのに時間も労力も技術もたくさん注ぎ込まれてるけど、その世界が終わったらおしまい。リバイバルとか続編は考えず、その日その時のお話。ロマンを感じずにはいられません。

1秒も目を離せない、そんな公演でした。今回に限った話じゃないけどね(*´ `*)

 

あとこれは今回のお話とはあまり関係ないかもですが、フレアが真実と向き合う後半のあたりで流れたピアノのインスト曲が流れたとき、どこかで聴いた気がするぞ?って思ったらたぶんあれ「愛しい皃のトートロジー」でねねちゃんが真実を知らされたときにも流れた曲では…?

正解は分からないけど、自分の中でその疑惑が生まれた瞬間はわりとパニックで「えっ…あっ…えっ…??!」みたいな状態になりました。そして頭の中に浮かぶねねちゃんの「おはよう」。それなりのトラウマです。

 

藤丸さんが作・演出を担当される公演は、お恥ずかしながら今年初めて拝見したので、あまり詳しくは知りません。だけど今回の「凍焔」を含めたどの公演も、音と光の使い方にびりびりします(脚本が面白いのは大前提として)。目の前で作り上げられている世界や情景を壊さない・だけど耳に頭に目に記憶に焼き付いて離れなくさせる、それなんてドラッグですかっていう音の使い方だなと感じます。

光というか照明も同じで、記憶の端々にライトアップされた役者さんがいて、その表情にぐぐっと引き込まれてしまう。使えばいいってものじゃなく、はたまた使わなきゃいいってものでもなく、人の記憶に的確にボディブローかましてくる感じです。失礼ながら、一体この方はどんな頭してるんだといつでも思っております。何食べて過ごしてるんだ。

 

五感をフル活用してこそ楽しめる。それだけに、観終わったあとはいつもキャパが限界値に達するので死にたさもMAXになります。それでも何度でも行きたくなっちゃうから、やっぱりこれ無限ドラッグなのでは…?

 

ちなみに私の涙腺が死んだのは玉木さんの正体が明かされたときです。それまでの全部が脳内で走馬灯のように駆け巡り、なんとか頭が追いついた瞬間無事にプッツンしました。

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今回もだらっだら書き殴りましたが、簡潔に申し上げると「脚本も演出も役者も全てがとても面白かった」ってことです。一気に語彙力が死んだけどそういうことです。本当に面白かったー!また観たいし続きも気になるし、なんなら前回公演も改めて観たいぞ…と思わされる作品でした。キャストさんや制作さん、関係者の皆様、本当にお疲れ様でした!